2 使命
冷ややかで張詰めた冷気が忍び寄る朝を迎え、大聖堂の聖女"シスタン・トア"は、身を引き締めた。今、シスタンは朝の礼拝を終え、自室で聖典を筆写していた。ふと、寒さを感じ鵞ペンを置き、純白のローブを身に寄せた時、やわらかなノックの音が聞こえた。
「はい」
シスタンの声は、汚れ無き清涼さで冷気の中に響いた。ドアが開き、見習い僧の少女が現れた。少女は一礼し、静かな足取りでシスタンに近付き、口を開いた。
「聖女様、大司教さまがお呼びで御座います。大至急、南の塔までお越し下さいませ」
「わかりました。すぐに参りますと、お伝え下さい」
少女は一礼して退出し、シスタンは机上を整理し、礼服に着替え始めた。洗濯が行き届いた礼服に腕を通しながら、シスタンは微かな違和感を感じていた。大至急?猊下は一体私に何をお告げになるのだろうか。冬至祭の資金集めがうまくいっていないのだろうか。それとも、私の勤務態度に何処か不備があり、お叱りをうけるのだろうか。とにかく急いで行こう。シスタンは、姿見の前で豊かな黒髪を掻き上げると、踵を返して南の塔へ向かった。
デレヴァンス大司教の前に、両手を胸の前で組み、神に祈る一人の美しい娘が跪いていた。娘の顔には、その豊かな黒髪が流れ落ち様子は覗い知れないが、頭を垂れた姿から輝かしいオーラが、眩いばかりに放射されているかのような印象を受ける。
贅を凝らした礼拝堂内には、ステンドグラスの柔らかな光が溢れ、遠くからパイプオルガンの音色が漏れ聞こえていた。
美しい娘だ。デレヴァンスは、素直に思った。教会に居なくとも、誰かが"この娘は神の娘だ"と言えば、その場の人々は疑いもしないだろう。数々の巫女を見てきたデレヴァンスだったが、この娘こそ真の聖女であると、彼ですら信じ始めていた。また、そうでなければこの任務を与えはしなかっただろう。
「聖女シスタン」デレヴァンスは、威厳を込めて語り始めた。込めなければならなかった。自分がこの娘に行わせようとしている探索は、神の御心に反するものであろう。俗世間の欲に塗れているとはいえ、その様な事を真の聖女に言わなければならない事に対し、罪悪感を感じる自分が、嬉しかった。その為に、神の意志としてこの探索を託なければならない。
「そなたには、"神の試練"を受けてもらう」
シスタンは、はっと、顔を上げた。黒髪が、ステンドグラスを通して和らげられた午後の陽光を受け、碧の輝きを放った。
「そなたは1両日中に、真の災厄、我等が神に牙を向く邪神の化身を探し出し、それを討ち滅ぼす探索の旅に出るのだ。予言の時が来たのだ。そなたは、現世に現れた悪鬼を浄化する為、北の大雪原を抜け、ルヴェスを経由し、シリオンへ入るのだ。道中、教会護衛兵が共をする。探索は、困難を来すだろう、だが、恐れるな。唯一にして絶対の我等が神は、そなたと共にある」
一気に告げると、デレヴァンスはシスタンに背を向け、煌く祭壇に向き直り神に祈りを捧げた。上手く演じきれただろうか?いや、それは問題ではない。この娘は引き受けるであろう。純粋であるが故に。それが時に秩序を揺り動かす事に気付かない故に…
シスタンは、突然の知らせに動じる事無く、大司教の言葉を吟味した。
神の試練…予言の時…まさか、こんな使命が下されるとは…しかし、これは自分に与えられた真の神の僕になる為の、正に試練なのだ。シスタンの身体を熱い情熱が駆け巡った。自らの信仰心で身体を焼ききり、その中から新たな自分が再生するイメージが浮かぶ。その目の前には、祝福を授ける神が居る!
「喜んでお受け致します」シスタンは、答えた。
デレヴァンスが、ゆっくりとシスタンに向き直った。やはり受けたか…
「よろしい。すぐに支度を整えなさい。旅は、護衛兵が付いているとはいえ、困難をきたすであろう。必要なものがあれば、遠慮無く申し出るがよい」
「ありがとうございます」
シスタンは、立ち上りデレヴァンスに一礼して部屋を出た。
自室に戻っても、シスタンの脳裏からデレヴァンスの言葉は離れなかった。予言の時…教会で予言といえば、あの予言の事しかない。即ち、我等が神を、討ち滅ぼさんとする悪魔"ヴェルドス"の誕生。その悪魔は、世界を混沌に導く為、あらゆる悪事を働きかけ、人間から信仰心を奪おうとするのだ。その様な事は、断じて許す事は出来ない。
出発の前に身を清めよう。シスタンは、唇を引き締めると踵を返し自室を出た。
誰も居なくなったシスタンの部屋に、一陣の風が吹き込んだ。風は、卓上の書類を飛散させ、インク壷を倒した。倒れたインク壷から流れ出たインクが、床に滴り落ちた。床に広がったインクは、窓から射し込む陽光の加減でドス黒い血の様に見えた。
シスタンは、気が付いていない。デレヴァンスの言う予言とは、教会が教える予言ではないと、いう事に…