1 予言の始まり
 
 空は青く、雲一つ無く、空気は澄み切っていた。大聖堂の鋸歯状に屹立する塔の群れは雪の冠を被り、朝日を受けてその威厳に相応しくきらきらと輝いていた。冬の空に大聖堂の鐘が鳴り響き、人々は、一日の始まりを知らされ、各自の仕事へと動き出した。パン屋は出来立ての自家製パンを店頭に並べ始め、鍛冶屋は炉に火を入れ、子供たちは、白い息を吐きながら神学校へと走り出した。全くいつも通り、平和で退屈な一日が始まった。庶民の間では…
 人々に退屈な一日を知らせた大聖堂の奥は、退屈でもなければ、平和でもなかった。いや、表向きは平和その物だった。大聖堂の長、この国の教会の頂点に君臨するデレヴァンス大司教は、白いリネンの法衣に恰幅の良い腹を押し込み、従者に用意させた朝食を口に運んでいた。広いとは言えない専用食堂は贅を尽くした造りになっていた。この地方で採れる御影木製の磨かれたテーブル、同じく御影木製の食器棚、その中には、朝日を受けて眩く光る見事な銀製の食器、テーブルクロスは東方の島国から輸入された見事な絹製だった。
 朝日はさんさんと照りつけ、暖炉の火も赤々と燃えていたが、部屋の中は暖かくはなかった。デレヴァンス大司教は、かりっと仕上がったベーコンを口に運びながら、役立たずの従者を罵ったが、すぐにこの寒さは、あの予言を聞いたからに違いないと考えた。忌々しいデボンめ。魔道士め!
 大司教は、残りの食事を口の中に放り込み、呼び鈴を鳴らし従者に食器を下げさせた。食後のハーブティーを断り、執務室へ向かう。羊毛のクッションの敷かれた椅子に座り、今朝早く宮廷魔道士に聞かされた事について考え始める。灰色のローブに身を包んだ、痩せ過ぎの男の予言の力については疑う所が無い。残念な事だが。しかし、何故今になってあの事が…
 大司教は、窓際に立って雲一つ無い空を見上げ大きな溜息をついた。この事を王に相談しなければならない。王は、夏の日差しに晒された砂糖菓子のように頼り無い男だが、あんな男でも王は王だ、表向き筋は通さなければ。デレヴァンスは従者を呼び、馬車の用意をさせた。

 自然豊かな国オーガスの国王ジュノス三世は、普通に立っているだけで周囲の空気を不快にする男だった。煌びやかな衣装を纏っているが、包まれている中身は、あまりにも貧相だった。細面の顔は常に血色が良くなく、病弱そのものだった。おまけにジュノス三世は、白粉を塗りたくっており、頬紅をさし、口紅も引いていた。その様子は、さながら化粧をした喰死鬼であった。もっとも、喰死鬼程陰気な顔はしていなかったが、それでも目糞鼻糞を笑うという程度だ。
 今、王は玉座に納まり、目の前に跪く肥り過ぎの大司教を孔雀の羽で造られた扇を手に眺めていた。玉座の左右には、重武装の衛兵がつき、少し離れたビロードのカーテンの陰には宮廷魔道師の姿があった。デレヴァンスは、魔道士に目を向けたがすぐに視線を逸らした。ジュノス三世が、難儀そうに話しかけた。
 「デレヴァンスよ、もう一度言うてくれ。そちの言うておる事がよう分からんぞ」 
 デレヴァンスは舌打ちした。何ともしがたいあほうだ。だが、そんな事は顔に出さず、デレヴァンスは辛抱強く言った。
 「陛下、お国の一大事なのです。陛下のご子息がこの国に災厄を招くとのお告げがあったのです」
 「そこじゃ。わらわに息子は居らん。居るのは、娘のアリーヤだけじゃ。最近また可愛らしさを増してな、そろそろ婿を迎える準備をした方が良いと思うのじゃが、どうじゃろうか?」何を言い出すのだ。アリーヤ姫は、まだ7歳ではないか!デレヴァンスは、法衣の下で拳を握り締め、王を殴りつけたい衝動を押さえた。
 「陛下、私が申し上げておりますのは、前王妃ネリア様との間に御生まれになった、御子息の事で御座います」
 デレヴァンスの言葉を聞いて、王は動きを止めた。「あれは死んだ。その息子も。そちがその様に計らったのではなかったか?」ジュノス三世にそう言われ、デレヴァンスは俯いた。それを言われると辛い。その通りだ。
 23年前のあの日、その日は、国を挙げての祝いの日となるはずだった。オーガス王家の世継ぎの誕生が告げられたのだ。街中はお祭り騒ぎとなり、城門にも王子の誕生を祝う人々が押し寄せた。当時、大司教に任命されたばかりのデレヴァンスは、王子の洗礼という大役を授かり、大層光栄に思っていた。
 しかし、それをあの灰色のローブが水を差した。デボンは、自らの予知として、王子は将来オーガスの地に災いをもたらすとデレヴァンスに告げた。デレヴァンスは狼狽し、事の次第を王に告げた。オーガス国王ジュノス三世は、当時からあの体たらくだったので、デレヴァンス以上に狼狽し、王子がどのような脅威となるのかを確かめぬまま、王子を排除するようデレヴァンスに命じた。当時のデレヴァンスは、今と違い神の忠実な下僕だった。この世に生を享けたばかりの、しかも、王子を手に掛けるなど、正に神に誓って出来ない相談だった。とりあえず、市民には王子は死産だったと告げられ、町は一転して沈んだ重苦しい空気に支配された。人々は変わって、お悔やみを述べる為に城門に押し寄せた。
 その城内で、デレヴァンスは、一人の女に王子を預けた。女は、城で働く下働きの女で、数年前に息子を戦争で亡くしていた。女に大金を渡し、国を出てその子供を育てる様に命じた。勿論子供が王子だとは告げなかった。
 「その子供は、先の戦いで国の為に死んだ、お前の息子の生まれ変わりと、お告げがあった。二度と戦禍に巻き込まれぬ様、国を出て静かに暮らすが良い。当面の路銀も用意した。さあ、行くが良い」女は、若い大司教の言葉に感激し、喉を詰まらせて感謝の言葉を述べ、何の疑いも持たずデレヴァンスの言葉に従った。これで良い。ジュノス三世と王妃はまだ若い。世継ぎが出来る可能性はまだある。その時は、それで良いと思ったのだ。だが、そうはならなかった。
 ジュノス三世は兎も角、わが子を失った王妃は、哀しみの余り精神を病み、西の塔(現在は呪詛の塔と呼ばれている)に閉じ篭り、食事も採らず一人泣き暮らした。そして、餓死した。その後、ジュノス三世は妾の一人に子を身篭らせたが、それがアリーヤ姫だった。
 「確かに私めが取り計らいました。唯、確認を怠ったのです」
 「ならば、そちの責任じゃ。自分の尻は、自分で拭くのじゃ」
デレヴァンスは、怒りに顔を真っ赤にしたが、ただ俯いて言った。「御意に…」
謁見は終わり、デレヴァンスは憮然と王宮を後にした。その様子を見て、宮廷魔道士デボンは唇に薄い笑みを浮かべた。

 デレヴァンスは真っ直ぐ大聖堂には戻らず、城下町の貧民街にある一軒の寂れた酒場へと立ち寄った。"蛇の抜け殻亭"というその酒場は、小便と吐瀉物の臭いが染み込んだ不潔な店だった。デレヴァンスは、表に馬車を待たせ一人店内に入った。
 店内は昼間だというのに薄暗く、煤けたランプが店内を申し訳程度に照らしていた。客は一人も居なく、バーテンが一人居るだけだ。バーテンは、片目に眼帯をした大男で、大きな手に小さなグラスを持ち拭いていた。バーテンというより、用心棒の方が似合っていた。バーテンがデレヴァンスを見止め、挨拶した。
 「こりゃあデレヴァンスの旦那。こんな時間にどうしたんです?」バーテンの声は低く、力強かった。
 「旦那は止せ、シュルツ」デレヴァンスはむっつりと答えた。シュルツと呼ばれたバーテンは、肩を竦めてグラスを拭き始めた。
 「で?今回はどんな仕事で?」
 「楽な仕事だ。ある者を尾行して、そいつの上前をはねるのだ。尾行は得意だな?」
 「俺を誰だと思ってるんです?」
 シュルツは、鼻を鳴らした。デレヴァンスは、唇を歪めた。二人は、誰も居ない酒場の奥で暫くひそひそと語り合い、デレヴァンスは、シュルツに金貨の入った小袋を渡し、酒場を後にした。
 シュルツは、金貨を数え終わると一人笑みを漏らし、ブーツの中の隠しから短剣を引き抜いた。短剣は、弱々しいランプの光の中で、凶悪な光を自ら放った…


D&D戦記