2 電脳空間
 
 程よい量のドーパミンと、アドレナリンが、気分を落ち着かせてくれている。病院の薄暗い廊下を歩きながら、今までの事を考えてみた。
 トンでもない展開だぜ。巨大組織に身を売られ、無理矢理お脳を改造されちまった。おまけに、人助けをさせられる羽目になるとはね。しかし、本当に問題なのは、この状況を楽しんでる(チップのせいじゃなく)って事だ。
 
 あの後,前頭部のスロットの試運転をやらされた。周防が,パームコンピュータと一本のケーブルを取り出し、それを俺に手渡して言った。「それをケーブルで脳のスロットと繋ぎ,ジャックインしてみろ」
 俺は,ケーブルを見た。片方のジャックは,周辺機器用の汎用ジャックだった。もう片方は馴染みのない物だ。こっちをお脳に繋ぐ訳か。俺は,恐る恐る見なれないジャックを前頭部のソケットに挿しこんだ。
 「もう片方をパームに繋げば,自動プログラムがお前の脳をスキャンし始める」周防が解説した。
 「この中にはどんなプログラムが入っているんだ?」
 「入ってみれば分かる。私の仕事上のデータが入っている」
 俺は,頷いてジャックをパームコンピュータのスロットに近づけた。指先が汗ばんで来やがった。さすがに緊張するぜ。
 「南無三」
 俺は,呟いてジャックをソケットにはめ込んだ。

 サイバーが,最初に意識したのはグリッドだった。ワイヤーフレームで出来た街だ。しかし,恐ろしく単純な街だった。一本道に沿って,幾つかのビルが並んでいるだけだ。街と言うより,近所の商店街のアーケードといった感じだ。
 サイバーは,面を食らった。想像していた電脳空間とは,かなり違っていたのだ。もっと広大な,宇宙空間のような物を想像していたのだが。
 考えてみれば,今居るのは周防のパームコンピュータで,何処にもつながってはいないのだ。それにしてもちんけな中身だ。周防は,こいつをなんの目的で使っているのか,そんなことを考えつつ、サイバーは意識をちんけなアーケードに集中させた。
 サイバーは,直感で道路が,データバイパス,建物はデータファイルだろうと目星をつけた。試しに一つの建物に近づいてみた。建物に近づくにつれて,ワイヤーフレームにテクスチャーが張り付き,立派な3Dグラフィックになる。三階建て程度の古びたモルタルのビルだ。下町の,寂れた印刷会社を思わせる。
 サイバーは,正面の木製のドアの前に立った。ノブをひねる。ドアは難なく内側へ開いた。
 中は,事務所のようだ。事務机が二つと,コンピュータ端末,来客用のソファーがある。奥のほうに二階へあがる階段が見える。ざっと中を見たが,大した物は無さそうだったので,階段で二階に上がることにした。
 小さな踊り場を後に,二階へと上がる。廊下を挟んで,左右に一つづつドアがあった。右手のドアは,玄関の物と同じ様な造りに見える。左手の物は,如何にも丈夫そうな鉄の扉だった。サイバーは,左のドアの前に立った。ノブに手を掛けるが,鍵が掛かっている様だ。
 お出でなすったな。どれほどのセキュリティーか,見せてもらおうじゃないか。
 サイバーは,意識を集中し,右手の中に鍵空けのツールを創り出した。掌の中にブルーの光源が現れ,パッと弾ける。次の瞬間,サイバーの手には小さな針金が握られていた。簡単な扉破りのプログラムを組んだのだ。ピッキングツール並みのプログラムを組むことも出来るが,最低限の道具で,最大の仕事をするのがサイバーの,いや,ハッカーの美学だ。
 サイバーは,針金を玩びながら,ノブの構造を調べた。簡単な仕掛だ。周防の奴,どんな仕事のツールか知らないが,これじゃセキュリティーなんか無いようなもんだ。
 サイバーは,鼻歌交じりに針金を鍵穴に挿しこむと、2・3回捻っただけで鍵を外した。躊躇無く,ドアを開ける。
 中は,4畳半ほどの広さだった。そして,何も無かった。意外だな。サイバーは,思った。しかし,考えてみれば納得だ。これは,テストだ。電脳空間の体験版なのだ。第一,これが周防の持ち物だなど,確認は出来ない。
しかし,サイバーは何かがおかしいことに気が付いた。部屋を,観察する。下で見た部屋と変らない様に見える。・・・ちょっと待て。サイバーは,素早く今まで見て来たルートと,建物の概観をマッピングした。やはりそうだ。ここは,建物のほぼ中央に当たる筈だ。しかし,扉の向かいの壁には窓枠の跡がある。外に面してないところに,窓があるはずが無い。
 サイバーは,その窓枠の跡に近づき、慎重に調べようと,顔を近づけた…


 俺は,手の中にパームコンピュータを握り締め、それを見つめていた。一瞬,自分を見失っていた。
 「どうだ?」
 不意に声が聞こえたので,思わず肩をびくつかせた。振り向くと,周防が手にジャックインケーブルを持って立っていた。俺のお脳に挿さっていたモノを,無理矢理引き抜いたらしい。
 「もう少しで,あんたのお宝を暴けたんだがな」
 「全く恐れ入ったよ。わずか10秒で,セキュリティーを破るとはな」
 10秒?参ったぜ。たっぷり30分は居たと思ったが…10秒だと?俺は,電脳世界の余韻に浸った。お脳の表面に,青白いグリッチが走っているような感じだ。
 「どうやら問題は無さそうだな」
 「ああ。なかなか良いもんだな,あのお医者にしては」
 これは,素直な感想だ。電脳がこれほど素晴らしい世界だったとはね。しかも,そこでの俺はスーパーマンと来たもんだ。一瞬,あのお医者を仕返しリストから外そうかとも思ったが,やめた。御礼は,たっぷりしてやらないとな!
 「では,早速仕事だ」周防が,例のバリトンで言った。
 やれやれ,その前に片付け無きゃならんことが,山ほどある様だ。俺は、ゆっくりと立ち上がった。

 

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