5 覚醒
チップを挿しているにもかかわらず、頭が重く、疲れを感じてきた。エレベーターを待っている間に疲労は耐えられなくなり、俺は前方につんのめる様に倒れた。そんな俺の耳に、お医者の言葉が聞こえた。
「おやおや、かなりお疲れの様だね。チップを付けてこの有様じゃあ、チップを抜いたらショックを起こす事は避けられないな」言いながら、お医者は手を俺の後頭部のソケットに伸ばしてきた。
クソッたれ!どこからわいて出て来やがった。こいつ、俺を殺す気か?だが、今の俺には爪楊枝一本持ち上げる力も、気力も出なかった。お医者は、俺の頭からチップを引き抜き、俺はチップの扱い方を一つ学んだ。廊下に派手にゲロをぶちまけながら…
すべてが白くぼやけた世界で、ある声が聞こえてきた。男の声のようでもあり、女の声のようでもある。何と言っているのかは分からない。ただ、漠然と警告されているような感じがする。なんなんだ?チップの使いすぎで、おつむがオーバーヒートしちまったのか。しばらく耳を澄ましたが、それ以上声が聞こえる事はなく、俺は目を覚ました。
俺は、またもやベッドの上にいた。「お目覚めだね」お医者の声だ。俺は身を起こし、「やかましい」と言ったが、悪臭にたじろいだ。俺の上着はゲロ塗れだった。
「クソッ!着替えはないのかよ?」慌てて、上着を脱ぎ始める。
「今、持って来させているところだよ。意外に早く目覚めたね。関心、関心」
全くのんきなもんだ。俺は、脱いだ上着をお医者に投げつける衝動をなんとか押さえた。
お医者は、ニヤ付いた笑みを顔面に貼り付け、身を乗り出して言った。
「君に、重要な注意事項を言うのを忘れてしまった。私としたことが…うっかりミスだよ」
フン。そうだろうぜ。あんたなら、うっかり他人の脳を開けて、うっかり電極を埋め込み、うっかりその脳をオーバーヒートさせちまうだろうぜ!ついでに、うっかりそいつの葬式まで出しちまうかもしれんな。そんな事を考えていたが、表向きは苦い顔をしただけだ。それに、正直そんな気力もなかった。
「チップの能力に関しては先程話したと思ったがね?君も良い喩えを言っていたじゃないか。これは、ドラッグと同じだ。とね。君はまだ慣れていないんだ、使いすぎには十分注意する事だよ。もう一度言うが、君はチップを使うことで尿意を押さえる事が出来る。デートの最中には大助かりだ。だが、膀胱の中の尿は減らない。デートに夢中になりすぎると、彼女の前で膀胱は破裂だ。大恥を掻くことになる。分かるね?使い所を考える事だ」お医者は得意げに胸を張りながら言った。俺は、黙って頷いた。お医者の言う通りだ。ゲロをぶちまけて分かった。
「さて、試してみて分かったと思うが、君は電脳世界で最強と言ってもいい力を手に入れた。どうだね?」お医者は、手をひらひらさせながら言った。俺は、難儀そうに頷いた。まあ確かに、その点に関しては認めざろう得ない。
「問題は、世の中の仕組みが、ここでも力を持っている、という事だ。つまり、ただより怖いものはない。働かざるもの食うべからず。分かるかね?」
「何だと?」
俺がそう口を開いたところで、病室のドアがノックされ、着替えを持った看護婦が入ってきた。小柄な女だ。典型的な日本人体型だった。看護婦は一瞬躊躇したが、俺に着替えを渡して引き下がった。俺は、礼を言ってすぐに着替え始めた。清潔なパジャマに着替え、一息付いたところでお医者に言った。
「言ってる意味がよく分からんが?俺は、脳のブーストアップと引き換えに、政府の為に働く。あんたの言う世の中の仕組みとやらは、ちゃんと機能してると思うが?」
「勘違いをしちゃいけないな。君が、政府の為に働くのは義務だよ。君が望もうと、望まずともこの点は問題が無いはずだ。私は周防君からそう聞いたのだがね」
俺は、口を半開きにして絶句した。そうだ、確か周防は俺が日本政府に売られた、と言っていた。では、この上俺に何を求めて来るってんだ?
「君には、心からの忠誠を誓ってもらうのだよ。だが、言って聞かせるには時間が経ち過ぎた。大人の犬を躾るのは大変な事だよ。では、如何するか?何処かへ行ってしまわない様に首輪を着けるのが手っ取り早いだろう?」
俺は、眉をひそめた。「首輪だと?」
「うむ、正に首輪だね。君の脳内にガッチリと食い込んで決して錆び付く事が無い。そう、君の脳内にはナノロボットが埋め込まれている。ナノロボットを知っているかね?"ナノ"とは10億分の1m、原子のスケールだよ。原子サイズの自律ロボットが、君の140億個の脳神経ニューロンに取り付いている。それらは君の脳内に流れる生態電流で動き、脳内ネットワークを監視している。つまり、君の思考を読み取っているのだよ。政府の連中も捨てた物ではなかったね。実際これだけのナノロボットを秘密裏に造り上げていたんだからね。君も、ナノテクノロジーが公には御法度だという事くらい知っているだろ?」
お医者は眼鏡を外し、レンズを拭いた。俺の方はと言えば、妙なイメージが浮かんできて後頭部がちくちくと痛んだ。脳味噌に集った鋼鉄の蟻が、脳を掘り下げて自分達の巣を造っているイメージだ。意味は無いと分かっても頭を掻いていた。
「君の脳に取り付いているナノロボットは、君が電脳空間に居る時にしか働かない様にプログラムされている。君が電脳空間に入った時から、政府のデータベースに侵入できない様に監視を始める。もし君が、聖域に侵入しようとすれば大変な悲劇が起こる」お医者は、効果を出す為に一呼吸置いてから言った。
「ナノロボットは、君の生態電流を蓄電しオーバーロードさせる。君は文字通り、眼から火花を出して卒倒する。脳は、焼き過ぎたタラコの様になり、そうだな、握り拳大位は残るかもしれんな」
「なんてこった…」俺は頭を押さえ、うめいた。
「私が言い忘れたのは、そう言う事だよ。それから、これは私からの贈り物だ。有効に使ってくれたまえ」
お医者は、白衣の両ポケットから2つのプラスティックの箱を取り出し、俺の前に放った。半透明の箱の中に、大量のチップが見えた。
「大抵の欲求を満たすものはあるはずだ。くれぐれも、慎重に扱う事だよ。でないと、私が腕を振るった事が無駄になってしまうからね。おや?顔色が優れない様だね。今日は、入院していくと良い。そうだ、特別に個室をあてがってあげよう」
「やかましい!しばらく放っといてくれ」全くこのお医者は、放っておけば次の日まで喋り続けるかもしれん。俺は、お医者を睨みながら言った。ありがたい事に、お医者は肩を竦めると病室を出て行った。
室内は、物音一つしない棺桶と化した様だ。
では、俺も死人となって考えてみるか。かなりヘビーな状況に追いやられちまった様だ。しかし…ナノテクだと?俺は、またしても頭を押さえた。ナノテクノロジー自体は健全な技術だ。ナノテクのおかげで今の世の中1000量子ビットコンピュータは珍しくない。俺も仕事で使う物は、汎用型の1000量子ビットの物だ。しかし、その応用である自律型ナノロボットは、細菌兵器を上回る危険過ぎる技術だ。原子サイズであり、細菌の様に気紛れでもない。目的に添って半永久的に行動するだけだ。そんなモノが、俺のおつむにしこたま集ってやがるときた。全く、難儀な事だ。
俺は手を伸ばし、お医者のプレゼントを手に取った。馴染みとなったチップの群れが見える。一枚摘み出す。"ロドプシン強化"とある。何の事やらサッパリだ。チップは銀色に輝き手にひんやりと冷たく心地良かった。不思議と落ち着いた気持ちになっていくのが分かった。これも運命というやつか。俺は、チップの表面を撫でながら悟った気持ちになった。深呼吸して立ち上がり、病室を出た。
まぁ、なっちまった物はしょうがねぇ。
病室を出ると、王と鉢合わせた。王は軍隊式の休めの姿勢で、俺の病室の前に立っていた。俺を見ると苦虫を噛み潰したような顔をしやがった。俺は、そんなヤツを無視して廊下を歩き出した。
「どこへ行く?」不意に王が言った。俺は、怪訝な表情で振り向いた。
「退院だ。頭のイカレタ…あぁーっと、仲本とかいう医者にも許可を得たぜ。お前にも許可をもらわなけりゃいけないのか?」お医者の許可などもらっちゃいないが、知った事か。俺は王の事が気に食わないだけだ。
王は、じっと俺を見詰めている。野郎の視線は要らないぜ。俺は、気にせず歩き出した。すると、王は俺の後を追って歩き出した。リノリウムの廊下に王の靴音が響いてくる。
「おい!何だよ?俺は、衝撃の事実を聞かされて、ブルーなんだ。慰めてくれるなら有難いが、男は御免だ。とっとと失せろ!」
王は、俺と向かい合って立止まった。歯を剥き出して俺を睨んでいる。何だってんだよ。
「俺は、お前の部下だぞ」王は、言葉を搾り出した。
王の言葉に、俺は一瞬動きを止めた。そう言えば周防がそんな事を言っていたな。俺も楽しみにしていたんだ。こいつに殴られた恨みは忘れちゃいない。だが、今はいい。
「分かった。では、仕事は終わりだ、俺の前から失せろ」俺は、王に指を突き付けて言った。そのまま廊下を歩き出す。出来なかった。王が俺の肩を掴んで振り向かせたのだ。
「そうはいかん。俺は、あんたの身も守らなければならんのだ」
「何?」
「いいか、お前は、歩く国家機密だ。当然ガードが要るだろう」
あはん。
「そいつは大事だな。もう情報が漏れてるのか?俺の身辺より、そっちの管理を徹底した方が良いんじゃねーのか?」皮肉たっぷりに言ってやった。王は、大口を開けて黙り込んだ。ウツボが、口を開けている様に見える。
フン。今度こそ俺は廊下を進んだ。一人で。
エレベーターでロビーまで降り、広いロビーを横切って回転ドアから外に出た。外は、霧雨が降っていた。周囲の高層ビル群が霞んでいる。ビルの上方にはピンクやグリーンの蛍光ネオンが瞬いているが、それらも滲んだ光の広がりにしか見えない。気が滅入ってきた。チップを使おうかと迷っている所にタクシーが来た。俺は、開いた後部ドアから乗り込み、運転手に適当な行き先を告げた。タクシーは、霧雨に霞み、全てが平坦に見える町の中を走り出した。俺は背をもたれ、流れ行く景色を眺めた。何処を見てものっぺりとした切り絵の様な風景が続いていた。

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